「当事者間に婚姻をする意思がないとき」(742条1号)とは具体的に何か…最二小判昭和44年10月31日
「嘘から出た実(まこと)」という諺(ことわざ)がある。冗談のつもりが本当になってしまう。あるいは、一時の便宜のために装った嘘が、やがて真実の姿を成していく。人はときに、現実を少しばかり都合よく取り繕うために「形」から入ることがある。しかし、法という厳格な世界の扉を叩くとき、その「形」の裏に本物の「心」が伴っていなければ、法は冷ややかに首を振る。とりわけ、人の一生の骨格を形作る「婚姻」という営みにおいてはなおさらである。
ここに一つの物語を思い描いてみたい。若き日の男と女。かつて深く愛し合い、二人の間には一つの新しい命が宿った。しかし、若さゆえの迷いか、すれ違いか、二人は正式に結婚することのないまま、別々の道を歩むこととなった。子供は母親の手ひとつで育てられる。年月が流れるにつれ、父親となった男の心には、ある一つの思いが重くのしかかる。「自分の愛した子に、嫡出子というしかるべき社会的な立場を与えてやりたい」。
法律の定めでは、婚姻関係にない男女の間に生まれた子は「非嫡出子」となる。戸籍や相続などで差別のない社会を目指す試みが続けられているとはいえ、我が子の将来を案じる親心としては、少しでも有利で差別のない「嫡出子」の籍に入れてやりたいと願うのは人情かもしれない。そこで男と女は、ひとつの決断をする。「書類上だけ、結婚したことにしよう」。
二人は市区町村の役場へ赴き、婚姻届を提出した。サインも押印も正真正銘、本人たちの手によるものだ。役所の窓口で書類は受理され、戸籍上、二人は「夫婦」となり、子は目論見通り「嫡出子」としての身分を得た。これで目的は達せられた。二人には同居して共に生活を営むつもりも、互いに支え合う夫婦になる気も毛頭ない。ただ子供の身分を整えるという「目的」のために、婚姻届という「便法」を利用したに過ぎなかったのである。
しかし、時が過ぎ、この「偽りの関係」は思わぬ破綻を来すことになる。役所の紙の上だけで結ばれた二人の絆が、本当に法的効力を持つ「結婚」と言えるのだろうか。これに対し、日本の最高裁判所が下した結論は、極めて明快であり、同時に人々の倫理観に深く問いかけるものであった。
民法第七百四十二条一号には、「当事者間に婚姻をする意思がないとき」は婚姻が有効に成立しない、つまり無効になると定められている。裁判で争われたのは、この「婚姻をする意思」とは何を指すのか、という点であった。
第742条(婚姻の無効)
婚姻は、次に掲げる場合に限り、無効とする。
一 人違いその他の事由によって当事者間に婚姻をする意思がないとき。
二 当事者が婚姻の届出をしないとき。ただし、その届出が第739条第2項に定める方式を欠くだけであるときは、婚姻は、そのためにその効力を妨げられない。
当事者たちは主張する。「私たちは役所に婚姻届を出すことをお互いに合意していた。法律上の夫婦という形を作る意思は確かにあったのだから、これは有効な結婚である」と。表面的な手続きに同意していたのだから、「婚姻の意思」はあったのではないかというわけだ。
これに対して最高裁判所は、言葉の表面をすり抜けるような屁理屈を許さなかった。判決は言う。「婚姻をする意思がないとき」とは、当事者の間に「真に社会観念上夫婦であると認められる関係の設定を欲する効果意思」がない場合を指すのだ、と。
噛み砕いて言えばこうだ。ただ単に「戸籍上に夫婦と記載されること」を了解していたとしても、それだけでは足りない。互いに助け合い、生活を共にし、社会的に「この二人は夫婦だ」と認められるような実質的な関係を築く気持ち——すなわち「真の夫婦になる意思」がなければ、いくら書類が完璧であっても、その結婚は法律上ハラリと無効に帰してしまうのである。どれほど子供を想う切実な親心から出た便法であったとしても、法はその「形だけの嘘」を許容しない。
この判決が教えてくれるのは、日本の法律が「婚姻」という制度をいかに重く、かつ実質的なものとして捉えているかという事実だ。結婚とは、単に役所のデータベースに記録を残す契約手続ではない。一人の人間と一人の人間が、共に人生を歩むという「真心の合致」があって初めて成り立つ、人間社会の根幹をなす営みなのだ。
便利さを追求し、手続きの多くがデジタル化され、効率が尊ばれる現代社会において、私たちは時として「形」さえ整えば良いと考えがちになる。しかし、どれほど時代が移り変わろうとも、人の「心」そのものを置き去りにした手続きに、法は真の効力を与えない。最高裁の判決は、単なる法解釈の提示にとどまらず、「夫婦とは何か」「家族とは何か」という普遍的な問いを、今を生きる私たちに静かに投げかけている。便法という名の仮面を脱ぎ捨てたとき、そこに真実の絆が存在するかどうか。法が見つめているのは、いつの時代も提出された書類の余白ではなく、提出した当事者たちの胸の内に秘められた、真の意思なのである。

