民法909条 遺産分割の効力はどんな時に生ずるのか
時を巻き戻す魔法の言葉、それが民法第九百九条の「遡及効(そきゅうこう)」である。被相続人が亡くなった瞬間から、実際に遺産を分ける協議が調うまでには、数ヶ月から時には数年の月日を要する。だが分割が決まれば、あたかも「亡くなったその日」に分配が終わっていたかのように時を遡って効力を生じさせる。
第909条(遺産の分割の効力)
遺産の分割は、相続開始の時にさかのぼってその効力を生ずる。ただし、第三者の権利を害することはできない。
例えば、父が遺した土地を長男と次男で話し合い、長男が一人で引き継ぐことに決まったとしよう。協議がまとまったのは父の死から半年後であっても、法律上の取り扱いは「父が亡くなった瞬間から、その土地は長男の単独所有だった」ことになり、次男は最初から権利を持っていなかった扱いを受ける。相続開始から分割までの空白期間における権利の帰属を明確にし、権利関係の混乱を防ぐための知恵である。
だが、この「時間を巻き戻す仕組み」には大きな穴がある。もし長男と次男が話し合いをしている最中に、借金を抱えた次男の債権者(たとえば銀行)が「次男にも法定相続分の半分はあるはずだ」として、その土地の次男の持分を差し押さえてしまったらどうなるか。ここで「分割で長男の単独所有になったから次男の持分はゼロ、差押えも無効だ」と切り捨ててしまっては、事情を知らない第三者が不測の損害を被る。
そこで条文の但書(ただしがき)が効いてくる。「ただし、第三者の権利を害することはできない」。つまり、遺産分割の遡及効よりも、分割前に現れた善意の第三者を優先して保護するのである。先ほどの例で言えば、銀行による持分の差押えは有効となり、長男は差し押さえられた負担付きの持分を引き継ぐか、次男に対して代償金を求めるなどの実務的対応を迫られることとなる。
実務上の論点はこれにとどまらない。遺産分割前に生じた不動産の家賃収入や預貯金の利息、いわゆる「果実」の帰属である。最高裁判所の判例によれば、遺産分割前に生じた賃料収入は遺産そのものではなく、相続開始時の法定相続分に応じて各相続人が確定的に取得する共有割増収益とされる。つまり、分割協議で長男が不動産を得たとしても、それまでに発生した家賃収入までは自動的に遡って長男の独り占めにはならない。この点をうやむやにすると新たな紛争の種となるため、実務では分割協議書の中に「発生した賃料の帰属」についても明記するのが通例だ。
さらに、法改正に伴う配偶者居住権の取り扱いや、登記の公信力がない日本の不動産実務において、第三者が権利を保護されるための要件(対抗要件としての登記の有無)など、この条文をめぐる解釈の枝葉は実に生い茂っている。
「死者の遺した権利は、流れる時のなかでどう移ろうか」。第九百九条は、残された親族間の公平な分配と、社会の取引安全という二つの天秤を絶妙なバランスで取り保つ、相続法の要石なのである。

