ほぼ見かけない民法923条の共同相続人の限定承認とは
秋の夜長、亡き父の遺品を整理していた男が、引き出しの奥から小さな帳面を見つけた。めくるとそこには、思いもよらぬ借金の数字が並んでいる。預貯金は少しあるが、負債の全貌は霧のなか。こんなとき、相続人の頭をよぎるのが「限定承認」という制度である。得た財産の範囲内でのみ借金を返し、もし余りがでれば受け取る。一見すれば、願ったり叶ったりの仕組みだ。
第923条(共同相続人の限定承認)
相続人が数人あるときは、限定承認は、共同相続人の全員が共同してのみこれをすることができる。
しかし、ここに大きな落とし穴がある。民法第923条は「相続人が数人あるときは、限定承認は、共同相続人の全員が共同してのみこれをすることができる」と素っ気なく定める。いわゆる「全員一致の原則」である。
事例を考えてみよう。長男、次男、長女の三人が相続人だったとする。長男は「借金が怖いから限定承認にしたい」と望む。だが、音信不通の次男や、「面倒だから一切関わりたくない」と単純承認や放棄をしたがる長女がいると、話は立ち消えとなる。一人でも首を縦に振らなければ、長男は限定承認を選べないのだ。
なぜこれほど厳しい条件が課されるのか。理由は明確だ。限定承認を選ぶと、遺産の清算手続きという非常に複雑な作業が始まる。もし相続人ごとに「自分は単純承認、自分は限定承認」とバラバラな選択を許せば、権利関係は糸の絡まった雑巾のように紛糾し、債権者(お金を貸していた側)は大混乱に陥るからである。
だが、この「全員一致」が実務において厚い壁となって立ちはだかる。実社会では、音信不通の親族や不仲な兄弟姉妹など珍しくない。結果として、限定承認は年間でもわずか数千件程度しか利用されない「開かずの扉」と化しているのが現状だ。
実務上の論点として知っておきたいのは、「相続放棄」との関係である。もし次男や長女が家庭裁判所で正式に「相続放棄」の手続きを済ませれば、彼らは最初から相続人ではなかったことになる。残された長男一人で「全員」となり、単独で限定承認を申し立てることが可能になるのだ。身内の意思決定が割れた際の、重要な処方箋と言える。また熟慮期間( 3か月 )の引き延ばしや、財産目録の正確な作成など、手続上のハードルも極めて高い。
遺産という名の「光」だけでなく「影」も引き継ぐのが相続の理(ことわり)である。923条の縛りは、残された家族に絆の真価を問いかけているようでもある。制度の使い勝手を高める法改正の議論も漂うが、まずは家族間での対話と、早めの専門家への相談こそが、思わぬ泥沼を避ける唯一の道筋となろう。

