限定承認者は、相続債権者及び受遺者に対して弁済を拒むことができる 民法928条のウラ
「限定承認」という言葉を聞いて、すぐにその中身を思い浮かべられる人は多くないかもしれない。親が遺した借金を、遺産の範囲内でのみ背負う制度――。いわば、亡き人の財産を精算する「優しさをもった保護網」である。しかし、この親切な制度の裏には、綿密で冷徹とも言えるルールの網目が張り巡らされている。民法九二八条もまた、その重要なひとコマだ。
第928条(公告期間満了前の弁済の拒絶)
限定承認者は、前条第1項の期間の満了前には、相続債権者及び受遺者に対して弁済を拒むことができる
条文は極めて短い。「限定承認者は、前条第一項の期間の満了前には、相続債権者及び受遺者に対して弁済を拒むことができる」。これだけ読めば「なんだ、払わなくていい期間があるのか」で終わってしまう。だが、なぜ払ってはいけないのか。ここに法の深い知恵と実務の現実が隠されている。
ひとつの事例を考えてみよう。亡くなった父親が五千万円の借金を遺したとある会社員。手元にある遺産は三千万円の不動産のみだ。会社員は限定承認を選択した。すると間もなく、父の生前の知人A氏が「早く三千万円を返してくれ」と詰め寄ってきたとする。情に流された会社員が、このA氏に三千万円をすべて支払ってしまったらどうなるか。実は、後からより優先されるべき別の債権者B氏やC氏が現れたとき、事態は破綻する。A氏だけが「総取り」し、他の債権者は一銭も回収できなくなるからだ。
そこで九二八条の出番となる。限定承認をした相続人は、まず「債権者の方は名乗り出てください」という公告を官報などで行う(九二七条)。そして、その公告期間(ふた月以上)が満了するまでは、どんなに激しく督促されても「弁済を拒む権利」が与えられる。拒むことができるというより、実務的には「拒まなければならない」と解釈するのが実情だ。もしフライングして誰かに支払ってしまえば、他の債権者に損害を与えたとして、相続人自身が個人の財産から損害賠償責任を負わされるリスク(九三四条)すら生じる。
論点として興味深いのは、弁済を拒絶できる期間中、借金の「遅延損害金(利息)」はどうなるのかという点だ。支払いを拒めるからといって、利息の発生まで止まるわけではない。支払いは正当に猶予されるが、債務自体が消えたわけではないため、裏では遅延損害金が刻々と積み上がっていく。実務においては、この「弁済拒絶の効力」と「遅延損害金の発生」の切り分けを正しく理解しておかねばならない。
人生の不意打ちのように訪れる相続。悲しみの中で手続きに追われるとき、九二八条は「一歩立ち止まりなさい」と語りかけているかのようだ。焦って一部の人だけに報いることなく、全員に公平な分配を行うための「一時停止のシグナル」。法の細部に宿るこの静粛なルールこそが、混乱の中に秩序をもたらす防波堤なのである。
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