相続の放棄をした者による財産管理はどうなっているのか…民法940条を読み解く

春の冷たい雨が、誰もいなくなった実家のトタン屋根を静かに叩く。遺された者は「相続の放棄」という法の手続きを済ませ、これで故人との金銭的な絆から解放された、と胸をなで下ろすかもしれない。だが、法律の世界はそう単純ではない。庭の雑草や雨漏りの予兆を前にして、放棄したはずの手に、なおも小さな「重荷」が残されていることがある。民法第940条が定める「相続放棄者による管理」の規定である。

第940条(相続の放棄をした者による管理)
① 相続の放棄をした者は、その放棄の時に相続財産に属する財産を現に占有しているときは、相続人又は第952条第1項の相続財産の清算人に対して当該財産を引き渡すまでの間、自己の財産におけるのと同一の注意をもって、その財産を保存しなければならない。
② 第645条、第646条並びに第650条第1項及び第2項の規定は、前項の場合について準用する。

この条文は、2023年の法改正を経て現在の形になった。かつては放棄した者全員に広範な管理義務が及び、実務上の大きな負担となっていたが、改正によって「放棄の時に現に財産を占有している者」に限定され、義務の内容も「管理」から「保存」へとスリム化された。例えば、実家で暮らしていた長男の太郎さんが、多額の借金を恐れて相続放棄をしたとする。家にはまだ太郎さんの荷物が残り、鍵も手元にある。この状態を法律は「現に占有している」とみなす。太郎さんは、次の相続人や新しく選ばれた相続財産清算人にその財産を引き渡すまでの間、自己の財産におけるのと同一の注意をもって、その財産を「保存」しなければならないのだ。さらに、第2項が準用する委任の規定(費用が生じた場合の償還など)を通じて、法的なバランスが図られている。

ここで一つの論点が浮かび上がる。どこまでの行為が「保存」に含まれるのかという問題だ。台風で窓ガラスが割れそうなときに板を打ちつけるような応急処置や、最低限の管理は求められるが、屋根の大規模な葺き替えや、相続放棄した者による固定資産税の肩代わりまでが義務付けられるわけではない。あくまで現状を維持する「保存」にとどまる。しかし、実務の現場では、この線引きの曖昧さが悩ましい。誰も引き受手がいない「負動産」と化した空き家を巡り、放棄した人がいつまでも鍵を持ち、事実上の管理の板挟みになるケースが後を絶たないからだ。

すべての相続人が放棄した場合には、さらに事態は複雑化する。放置された財産を公的に清算するためには、裁判所に「相続財産清算人」を選任してもらう必要があるが、それには数十万円もの予納金という高いハードルが立ちはだかる。結果として、誰も面倒を見られない家が街のあちこちに残り、社会問題としての深刻な空き家を生む温床となっている。

放棄は個人の自由であり、認められた正当な権利である。しかし、社会共同生活の秩序のなかで、所有者のいない空白期間をどう埋めるかという法的なバトンタッチの知恵が、この第940条には隠されている。権利を手放したあとに残される、ほんの少しの温情と責任の境界線。それは私たちが「相続」という人間の営みと向き合うとき、決して見落としてならない静かな課題である。

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